宮澤ミシェルの教えに||宮沢セイラ||父親を強く尊敬

宮沢ミシェルA

父「他人に気遣い、愚痴言わず」

宮沢セイラ父親を強く尊敬、

「お父さんからの愛情は毎日感じています」と
タレントやモデルとして活躍する宮沢セイラは語る

父親は、元サッカー選手で現在は解説者として活躍する
宮沢ミシェルさん
テレビ界で活躍する父親はセイラにとって良き相談相手

「初めての経験は大変だけれど、神様がくれたもの」
「いつも応援しているよ」

2014年11月4日、乃木坂46を卒業して以来
最も大きな仕事となった
「東レキャンペーンガール」発表の日
不安でいっぱいのセイラの支えになったのは
父からのメールだったと語っていた

「お父さんに不安を打ち明けると安心できる
いつも、同じ目線で励ましてくれるから」

「デビュー当初、インターネットに書き込まれた自分の
悪口に落ち込むこともあった
しかし、父から
『自分の心を傷つけたらだめだよ
みんなを楽しませるためにやっているんだから』と諭され
『ネットも一つの意見』ととらえられるようになった
お父さんはいつも前向き
考え方も振る舞いも尊敬できる」と熱く語る

親子仲が良いのは昔からで
今もミシェルさんの部屋でおしゃべりをしたり
一緒に映画や食事に行くことが多く
厳しく叱るのは母親の育代さんの役目だと言っていた

ミシェルさんはセイラを含め
3人の子供たちを見守り
話しやすい雰囲気作りに徹しておられる

セイラは忘れられない思い出があると言う

小学校の時
クラスの友達が担任教師から必要以上に注意を受けていた
他の子供たちも萎縮してクラスの雰囲気が悪くなった

ある日、セイラは授業中に嘔吐(おうと)した
その時から体調が戻らず
「また吐いてしまったら先生に怒られるから教室には行けない」と
父親に訴えた

両親はすぐ学校に行き担任と面談
「それは娘さんの問題ですよね?」
「仕事ばかりで娘さんの事を見ていないんでしょう」などと言われ

父親のミシェルさんはしばらくすると
「学校を辞めよう」と言ってくれた

受験して入学した私立小学校だったが
地元の公立小に転校するとセイラは元気になった

「すごく苦しかった時期でした
お父さんはよく分かってくれていた」と語っている

留学中けがのため、子供の頃からの夢だったバレリーナをあきらめ
父と同じテレビの世界に飛び込んだ

家庭でも仕事場でも態度が変わることがなく
他人を気遣い、愚痴を言うこともない
「芸能界に入り、お父さんを尊敬する気持ちがより強くなりました」と語る

乃木坂46のライブで

「今日はお父さんが来ています」と言うと
わき起こったのは「ミシェルコール」
「私にコールしてよって思ったけれど
お父さんは人気者なんだなってうれしかった」

「今も実家で暮らしている
一人暮らしを考えることもあるが
「お父さんから学ぶことは、まだまだたくさんある
もう少しそばにいたいかな」

≪セイラから父親へのメッセージ≫

『お父さんが陰ながら見てくれていること、ちゃんと分かっています』
<父親 宮澤ミシェル氏のプロフィール>

1963年千葉県生まれ
フランス人の父と日本人の母を持つ
小学校からサッカーを始る
1981年に在日外国人として初めて国体に出場
国士舘大卒業後、フジタ(現・湘南ベルマーレ)などでプレーし
1995年に現役引退
現在はサッカー解説者として活躍中

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ジェフ市原で活躍した宮澤ミシェルさん

この人の話を聞いていると元気が出てくると思う人は
たくさん見えるのではなかろうか

現役時代ジェフ市原(現・千葉)で活躍した宮澤ミシェルさんは
解説業に留まらず、教育の現場でも精力的に活動を展開中である

子どもや若者に熱いメッセージを送り続けるミシェルさんが
フランス人の父を持った幼少期、Jリーグ草創期
そしてこれからの夢をユーモアを交えながら語り尽くしている

ピアノ一直線のはずがサッカーへ

父がフランス人の音楽家なんです
幼稚園のころオヤジに何したいんだと尋ねられて何気なく
ピアノって答えました
オヤジがアコーディオン奏者で身近に音楽があったから
なんとなくピアノでもやるかって
それからです
地獄の日々が始まったのは

幼稚園や小学校低学年のころはピアノ漬け
学校から帰ったら4時間
延々とピアノを弾かされる
オヤジは厳しくて
ちょっと間違えただけで指ガツンですよ

そんなオヤジのスパルタ教育が嫌で嫌で
近所のピアノ教室に行くことにしました

でもね、オヤジはピアノ教室にもついてきたんです
僕が間違えると先生が指摘する前に、雷を落とすんです
これには先生も困って、家でお父さんに習えば
なんていわれました

父とは一緒にステージに立ったこともあります
あれは小1のころ、父の演奏旅行について行くと
ホテルのビアガーデンで「アイスクリームあげるから
パパと演奏してよ」とお願いされたんです

小さな子どもが出てくると、それだけで盛り上がりますからね
仕方なく父のアコーディオンに合わせてピアノを弾いたんですが
帰りにボロクソにけなされ
二度とピアノなんて弾くものかと思いました

あそこで褒められていたら

音楽家の道を進んでいたかもしれない

サッカーは小3のころから本格的に始めました
通っていた小学校はサッカーが強くて
地区大会は地元のテレビ局で放送される
そんなテレビで見ていた憧れの先輩と一緒にやるサッカーは
もう面白くて面白くて、あっという間にのめり込みました

フランス人の父は僕がサッカーを始めたことに大喜びで
いつも試合を見に来ました
気がつけばピアノはフェイドアウト
ちびっ子ピアニストからサッカー小僧になっていました

DFに転向してJリーグに「たどり着く」

自分で言うのも何だけど

サッカーでは学生時代から注目されていました
高校卒業時には実業団7社から誘われ
国士舘大学を卒業するときもいくつか誘いがありました
高校時代に一度、読売クラブ(現・東京ヴェルディ)の
練習に参加したんですが
あれは強烈な体験でした
最初の二日間はキーパーしかさせてくれない
ミニゲームがあっても、ラモスさんが下手くそはキーパーやっとけって
フィールドに入れてくれないんです

さすがに可哀そうだと周りのブラジル人が言い出して
3日目にチャンスが巡ってきました
もう死に物狂いで松木さんや都並さんに勝負を挑んで
確かな手応えをつかんだんです

僕は30歳という年齢でJリーガーになったんですが
つくづく運が良かったと思う

子どものころから攻撃のポジションをやってきたのに
大学時代のある日急に
最終ラインの真ん中をやれといわれたんです

宮沢セイラM

フォワード一本で勝負すると腹を括っていたので
あれにはがっくりきた
でも、僕は元々怪我も多かったからフォワードを続けていたら
Jリーグが始まる前に引退していたと思う
ディフェンダーに転向したから
Jリーグの舞台にたどり着けたと思うんです

Jリーグが始まったころ
30歳の僕の身体はボロボロになっていました
当時は週2試合は当たり前
しかも延長Vゴール方式だったので
きつくてきつくてたまらなかった
でもいろんな人々の助けがあって満員のお客さんの前でプレーできる
そう思ったら、感謝の気持ちしか出てこない

試合でも長くプロを続けたいと思って
あらゆる努力をしました
鍼がいいと聞けば鍼を打ちに行き
気功がいいと聞けば気功をやる

時効だからいいますが、ライセンスのない
いわゆる闇医者に診てもらって
懸命に身体の手入れをしていました
あのころのベテランは
みんなそれくらいのことはやってましたよ

サッカーだから学べることがある

宮沢ミシェルB

Jリーグでは3年間プレーしました
最後の一年は、氷嚢が友達というほど身体はガタガタ
一日でも長くやりたかったけど、もう引退するしかなかった

でも未練を残してスパイクを脱いだから
しばらくセカンドキャリアのことは考えられなかったですね
解説を始めたときも
放送ブースで「俺もまだ活躍できるのに」なんて悶々としていて
正直みっともなかった

でも、そのうち解説の仕事が面白いと思えるようになってきました
サッカーの現場にいられるというのが
とても幸せだと思えるようになったんです
いまは企業に呼ばれて自分の体験を語ったり
地元の青少年の教育に携わったりと
仕事の幅は広がっています

特に、子どもたちの教育には力を入れていきたいですね
携帯電話の普及もあってか
いまは人付き合いの苦手な子どもが少なくない
そんな時代だからこそ、スポーツの重要度は増していると思うんです

知り合いに塾の経営者がいて、彼は僕に
「サッカーやってどうなるんですか?」なんていいます
でも、そこは僕も負けません

「サッカーだから学べるものがあるんです」と言い返すんです
挨拶はもちろん、仲間を大事にする心
努力することの楽しさ
サッカーをすることで
僕は人生にとって大事なたくさんのことを学びました
それを今度は自分が子どもたちに与えられたら
そう強く思うんです

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